昭和44年8月23日 朝のご理解


 御神訓「用心せよわが心の鬼がわが身を責めるぞ」

 今日は用心せよというところに焦点を置いてお話を進めていきたいとおもいます。わが心の鬼がわが身を責めるぞという事はまあ、みんなすぐお分かりになるところだと思いますね。例えて申しますと、許されて遊んでおる。自分のわがままで遊んでおる人。同じ遊びをしておっても大変内容が違ってくるですよね。まあ例えて言うと、今度私共、御本部から、京都に参りまして、旅行をさせて頂いたのですけれども、それこそ、(   ?    )思うのですね。本当にこの自分が行こうと思うて自分が遊ぼうと思うて遊ぶのではない。本当に神様がそうさせておらなければおかんという働きが今度の旅行になったわけですから、もう、このような贅沢をしてよかろうかと、勿論、汽車はいつも特等ですし、旅館ホテルというのはその町の一番一流の店だし、もう、本当にその勿体無い事でございます。勿体無いことでありますけれどもです、わが心の鬼がわが身を責めないのです。ね。ところがです、例えばなら私が今度はどうでん自分が京都に行きたいから、神様にご無理をお願いして行ったと致しましょうかね、途中で例えばいろんなあの、事に出会う度に冷や冷やしたりまたは、心を暗くしたりすることだろうとこう思います。これは神様にご無理を言うてきとるから神様がお気づきに下さりよるとじゃなかろうかという風に思うわけです。というのは今度はね、旅行で皆が実感したことは非常にこのタイミングというのが一つずつずれておるという感じですね。ピタッとこうタイミングよう行かない。けれども、一つずつこう、ずれておるというところにこう、なんとも言えんありがたさを感じさせて頂くような旅行でしたよね。その事を神様、私ちょうど、ふっとあの京都の市内でしたが、合楽のお広前の事がちょっと気になった。そしたら、ちょうどそこをですね、同じ電車の停留所が上の方に学校があってね、運動場がこうあるんですよ。その下が電車( ? )そこに電車の待合所がある。その待合所というても家はないのですけれども、まあ、ベンチがおいてある程度ですけれども、そのベンチの上が(ふじだな?)になっておる。ちょうど、もう夕方ですから西日がこうあたっておりますから、あの、( ? )あるけれども日陰は運動場のほうへ行っているわけです。(ふじだな?)があるから涼しいはずなのに、下のほうはいわば暑いとこういうわけ。まあ、運動場と学校というのは合楽の教会のことだろう。影、おかげのほうは合楽のほうでは十分私がおらんでも、だからお前はこちらで少し暑い思いをする。まあ、暑い思いをするという事は実際においてはもう本当に涼しい想いでした冷房から、冷房の効いた車からお家へ参るのですから、まあ行く先でも、とにかく比叡山というとこは山に登っただけでもひんやりするようなところですから、その、暑い思いというのは今私が言う、タイミングが一歩ずつづれておったという感じなん。ね。ところが私が京都の方へおっても合楽の方では、あの、皆がおかげを受けて、おかげは、おかげの方はこちらの方へちゃっと学校の方へおかげが移っておるんだと、まあ、安心して旅行せよという意味の事を感じさせて頂いたのですけれどもね、そういう時でもですね、例えば一歩どこででもこうずれてくるわけですね。例えば東京まで行こうと思うたけれども、帰りの飛行機がない。切符がない。まああそこに、二時間、三時間くらいそのことの手配で色々、結局一番初めに企画の人たちが企画しておりましたようにもう東京まで行かずに比叡山、京都を一日ゆっくりみせて頂いてあくる日は、神戸からやはり船で帰ったがよかろうと。ところが船の手配をしたところが船のほうがもう満員だ。特等席が二つと特別のいうなら、( ? )皆様方がお使いになるといったような、部屋、三つしかない。勿論そこに二人づつ入れますから、一行6名ですからそれなら、それで帰らなければ仕方がない。帰りの汽車、汽車といったらその満員である。指定席なんかないというわけなんです。ですから結局一番初めの企画のされておった通りに、まあ、( ? )ですけれども、船が神戸から別府まで13時間ですかね、その間を本当に時間のたつのが忘れるくらいに素晴らしい航海でしたし、もう船はそれこそ大きな応接間が二つついておるのが、( ? )それも素晴らしいその、いわゆる頂きましてね、ですから、あれが本当にその、許されておるから、本当に勿体無い勿体無いで過ごされますけれども、もし許されてなかったらこんなことをしよったらおきづけを頂くとじゃなかろう、こんなことをしよったら罰かぶるというごたる気持ちがする。そういう事がわが身を責めるという事になる。もう少しそれを深刻に言うとですね、同じ例えば遊んでおっても泥棒して遊んでおるというのがありますよね。( ? )と(?)お芝居がありますよね。( ? )のなんとかの雪解けという芝居、それこそ芝居としては素晴らしいお芝居なんですけれども、その
( ? )というのが、実は泥棒なん。そこに一番のおいらんと恋に落ちるわけでございますけれども、ね、それこそ本当に恋の極楽というような中にあって、もう本当に、楽しいはずでなからなければならんのに、自分の心のいつ追って追われておるか分からん、いつ捕り手が踏み込んでくるか分からんという苦しさで一杯だという意味の台詞がございます。自分が悪いことをしてきてから、遊びよるとじゃからいつも自分の心というのは、わが心の鬼で責めさいなまれておるというのです。ね。例えばなら、そんな悪いことをして遊んでおるのではなくてもですね、例えば許されていない、わがままとか贅沢といったような事がです、ね、それを( ? )頂くところにやはり、わが身をせめてくる。わが心の鬼がわが身を責めるというのはそういう事ですね。自分が根性が悪いから人からもやはり根性が悪い人だとこう思うわけなん。
 心の鬼がわが身をせめておる。今日はそこのところをですね、用心せよというとこは。
今日私ご神前で、「信心心は神心」と頂いた。「信心心は神心」と勿論これはわが心が神に向かうのを信心というのじゃという信心だと思います。ね。ただ拝みさえしよりゃ信心という意味のものではない。わが心が神に向かうのを信心と言うのじゃと仰るような意味合いにおいての信心。ですから信心心は神心である。信心の稽古に皆さんがこうして通うてこられる。もうすでにそこには神心が働いておる。ところがですね、それがすぐに後戻りをする。徳川家康の家訓じゃないですけれども、「人の一生は重い荷物を引いて、車にのせて引いて坂道を登るようなものだ」と言うておりますですね。人の一生というのは重い荷物を引いた車しかもそれが坂道だ。油断をすると後戻りするというわけなんです。まさしくその通りです。すぐに後戻りをする。たしかにお広前であった証拠にありがたかった。はあ今日は、初めてあそこのところのご理解はそういう意味じゃったかと思うて、その教えがだんだん深くわかっていくことが嬉しい、喜ばしい。その喜ばしいという心がです、いつの間にかすぐ後戻りをしておる。私はこの用心せよと仰るのはそのことだと思うのです。ね。私はこの御神訓というのは、わが心の鬼がわが身をせめるというところが焦点だと思うておった。わが心の鬼がわが身を責めるぞと、それこそ、泥棒やらしておったらそれこそ、夜もろくろく眠られない。パタンと音がしてももう、その捕り手がおっかけてきておるとじゃなかろうかというようにです、わが身を責める。悪いことをしちゃいかん、悪いことをするとわが心の鬼に責めさいなまれなければならないと、いうところだと私は思うてまたそうでもありますけれども、そこが大事だと思うたところが、それ一つ前のものが大事だというところ。いわゆる用心せよところが大事だ。用心せよ。ね。そこで例えば、平たい道である。だから目くらがいったっちゃ分かるというようなところであってもです、どこにつまずくようなものがあるか分からん。どこに障害なものがあるか分からん。平坦な道を行っておる用心はいらんごたるけれども、やはり用心をしておかなければ危ないというのである。もう神様にお願いしとるけん大丈夫。成る程、お願いしておるから、働きは頂きましょう。頂きましょうけれども、願うたからには願うた者もやはり、心を神様にいつも向けておる精進をしておかなければいかん。
 そこが( ? )おかげにならん。神様の働きと私共の用心の心というのがね、そこにもとめられるわけなんです。その用心をしないところに確かにお広前ではありがたかったけれども確かに心が神心になっておったけれども、ね、後戻りをしておる。ね。そこにです、ね、わが心の鬼のいうならば住まい場というものを作ってしまう。鬼なんかが入ってこれない程しのものでなからなければならないけれども油断しておるうちに時にいつの間にかわが心の中に、わが心を責める鬼が( ? )入ってしまう。ね、そしてそれに責めさいなまれる。さいなまれると今度は自分だけでなく人までせめてくるようになってくる。それはもう私が悪いことは分かっておるけれども、あの人も悪かちいうことになってくるのです。ね。自分が悪かなら悪かだけならまだいいですけれども、自分だけがさいなまれておるのだから。けれども、こげんなったつも( ? )せいだ、こげんなったつもあの人のせいだというて、自分が悪いことをしておって、自分がいわゆる苦しんでおるそのせいを、人にもっていこうとする。ね。もういよいよ言語道断。だから私は思いますのに、信心心は神心と仰るのにです、確かに信心心は神心ですから、ならその信心心とはどういう事をいつも自分の心の中に頂き続けておったらよいだろうかと。ね。勿論、朝み教えを頂いて御教えのそこんところを今日の支えとして頂こうと言う風に皆さんが精進をなせれます。それは絶対大事であるけれども、結構であるけれども私は信心させていただく者は何事にも信心になれよとこう仰るが私はとりわけ、とりわけ、人間を大切にしなければいけないと思いますね。とりわけですよ。人間を大切にしないから、人間から粗末に扱われる。そこで腹がたったり情けなかったりする。ね。この人だけは大切にするけれどもこの人は大切にしない。人を軽くみるわけです。人を軽くみたらおかげはなし。だから人間全て神の氏子としての見方、とりわけ人間を大切にするという姿勢。もちろん、人間だけではありません。一切の者を大切にするというのがお道の信心。ね。成り行きを大切にと言われるのもそうです。ね。例えばですよ、お金ならお金を大切にする。勿論信心でですよ。ね。ですからお金から大切にする。人を大切にするから人から大切にされる。成り行きを大切にするから成り行きそのものが又、あなたが、皆を大切にしてくださる。いうならば天地が自由になるほどしのおかげを受けられる。 
 ね。今まで、降りよったのが私が表に出ろうと思うたら降り止んだと例えばいうようにです自然が私を大事にして下さる。それは自然、その成り行きを大切にするからなん。自分が大切にせんどってから大切にされたいというのはちょっとおかしい。ね。お金から大切にされたいなら本当にお金を大切にしなければ、だからお金から責めさいなまれておる時には大切にしていなかった事のおわびをしっかりこれからは金輪際大切にしますから大事にしますからという、改まりを添えて願わなければならん。ね。まずそういう意味で全てのことを大事にしなければなりません。ね。今の教主様は生活の現場という事を言うておられますがね、生活の現場においてです、ね、そこんところを大切にするという事を強調して教えておられます。自分のお仕事の場というところを大切にする。ね。それが信心なのだ。それをとりわけです、人間を大切にするという事の一つの思い込みというものをね、作る。人間を大切にさせてもらう。私はねこの用心せよというたった一言のことだけれどもこの用心せよと言う事は非常に広いと思うのです。わが心の鬼から責められないようにするための用心なのです。そこを信心だと。ね。今日はとりわけ一つこの用心せよというところを皆さんがしっかり頂いてもらわな、信心心は神心。こうして信心の稽古にかようておる時にはすでに神心。その神心を維持するために1日、持ちつづけるためにもう朝こういうありがたい気持ちになっておるけんでと思うてから、あーもみとるから、帰った時にはね、神心ところか、反対の心が出てしまっておる。用心しないから。ね。もう帰りがけから自動車に乗る人は自動車を大切に、来がけもおかげ、帰りがけもどうぞお願いしますよというようにその自動車を大切にして、ね、履いてきた履物に対しましてもね、乗ってきた車に対しましてもそういう私は用心せよと言う事はそういう事だとこう思う。そこに私は信心心は神心と仰るその神心を持ち続けて何時も神様に心が向かっておるというこれは一つの証なのです。
 私の心がいつも神様に向かうておりますという一つの印なのです。それが全てのことを大切にして折る事になる。とりわけ人間を大切にさせて頂く。人間を軽く見てはいけない。そこからやはり人間から大切にされる。大切にされるとですね自分の心の中がいつも痛かれ有り難い。勿体無いという事になってくるのです。ね。わが心の鬼の出るまくが無くなってくる。ね。そこに私は本当の有り難い信心生活というのがある。用心せよ、わが心の鬼がわが身を責める。だからここんところを悪いことをして例えば今日の私の御理解、神様のお心には添わない旅行なら旅行をしておって、それがどんなに大名旅行であっても、それがどんなに大名旅行であればあるほどに、はあ、こげなことをしておってよかだろうか、何時罰かぶるじゃろうか、いつお気づけ頂くじゃろうか、この船がひっくりかえりゃせんじゃろうかという心配が起こってくる。これはわが身をせめておるわけです。ね。そういう事ではいけない。許されての例えば旅行のおかげで私共はどういうとてもそれは勿体なか、皆さまがのんなさるような部屋にいれてもらちゃ勿体なか、勿体無いと思うけれども、それで、心を責めることは一つもなかった。まあそれはその程度のことですけれども、なら悪いことをして旅行、例えば悪い事をして遊んでおる。悪いことをして旅行をしておる。それこそいつおって、後ろからおってくるか分からんという、もっと深刻なわが心の鬼がわが身を責めることになるのだとね。そういうような事をここで教えてありますがそれ以前のこの、ね、それ以前のもの、ここんところを用心せよと仰っておられる、その用心せよというところを今日は分かって頂く為に( ? )わけですね。なら、用心せよと言う事はどういう事かというと、信心心は神心。信心心は神心。その神心を維持するためにね、全てのことを大切にする。とりわけ人間を軽うみちゃならん。人間を本当に大切にしなければいけない。自分が粗末に扱われる。自分が粗末に扱われておるからである。人から大切にされたいならば人を本当に心から大切にしなければいけん。それが例えばですよ、自分の好きなとだけは大切にする。これは大切にはならない、信心で言う大切というのはそんなもんじゃない。人間を大切にせよというのは人間全てに赤であろうが黒であろうが、ね、それを神の氏子としての見方を頂き方をさせてもろうて大切にする。
 ね、それを神様がお喜び下さるから全てのことから大切にされるのだと。ね、私共がね、信心心は神心だと。確かにそうだと、けれどもそれはすぐ後戻りするという事を一つ頭にいれとかなければいけん。坂道を車を引いて登っておるようなものだ。油断をするとす直ぐ後戻りをする。ね。その油断をしないという事が用心をするということだと言う風に今日は申しましたですね。用心せよ、用心せよとはそういう色々な意味があると思うのです。ね。とりわけ一つ今日は信心、皆さんが今頂いておる神心をそのまま維持させてもらうためにいよいよ用心して帰る。用心して仕事の、いわゆる現場において、そこんところの全てを大事にする。とりわけ、そこに、自分との関係の有る人達のいわば、人間というものをです、とりわけ大切にさせて頂くというような心がけを持つことがです、何時も私の心の中にわが心の鬼から責め苛まれるようなことがおこらないおかげが受けられる。本当にこんな取り扱いを受けてもよかろうかと勿体無いといういわば、生活が出来るわけですね。
                                   どうぞ